昭和50年02月20日 朝の御理解
御神訓 一、「やれ痛やと言う心で有難し、今みかげをと言う心になれよ。」
いろんな痛い痒いは勿論の事、様々な難儀を感ずる事が御座います。その難儀を感ずる時に、やれ痛やと言う時に、有難しと言う心が生まれて来る様になったら、何時もが有難いと言う事になる。何でもない自分の都合の良い時には有難いけれども、都合の悪い時には有難くないでは。有難いと有難くないとが半分半分になります。そこでやれ痛や今みかげを、今、今こそおかげを頂いとる時だと言う心でお礼を言う心になれよと。
是は大変難しい事ですけれども、神様のお心が解ると言いうか、御神願神様の願いが解ると言うか、致して参りますとこの辺が段々はっきりして来るのです。此処では神愛と言う神様の愛と言う事を申します。親が子供を折檻すると言う様な場合があります。又子供を、言う事をきかん時には、押し入れの中に押し込んだり、又は叩いたりまでする様な事まであります。それは決して憎いからではないのです。
そう言う根性では、大きくなったら不幸になると思うから、子の小さい時性根を叩き直しておこうと言うのが、親の願いである。だからそこを改めて、お詫びをする気になると、例えば押し入れの中に入れられとっても、我を張ってお詫びをしないから、押し入れの中に何時までも、入っとかなければならない暗い運命がそこにあるのです。痛い思いがするでもそうです。訳もないのに叩く親はありません。訳があるからこそ、叩くのです。ですからその御神意を悟る時にです。
叩かれながらも矢張り、その手に縋ってお詫びをしなきゃならん、お礼を申し上げなっければならない。そこでその、神愛と言う事なんですけれども、そこに難儀がある、決して訳なくして難儀があると言う事ではない。難儀を受けなければならない元は、銘々にあるのです。銘々の家に、又は銘々の心の中にあるのです。因縁物語ではないですけどね、親の因果が子に移ると言う事になるのです。又は自分自身が犯しておる、お粗末御無礼の為の、せいであります。決して無碍な事ではないです。
訳があっての事と言うてその難儀と言うものを「やれ痛や今みかげを」と言う様な心になる時にです、その難儀のおかげで、徳を受けると言う事にもなるのです。おかげを受ける、力を受けると言う事になるのです。そうなって来ると成程神愛だなと言う事が解ります。神様がその氏子に徳を授けよう力を授けようと思われるから、難儀を与えると言う事にもなるのです。けどその難儀とてもです又その一遍通りの事ではありません。その難儀を受けなければならない元は、自分の家にあり自分自身にあるのです。
其処が解った時にです、詫びるより外はないのです。そして御神意を悟らせて頂き、御神意に基づいた生き方以外にないのです。そこで難儀様のおかげで今日のおかげがある、おかげの世界があると言う事になるのです。だからどちらにしても矢張り神愛は神愛ですね。私共がまあ、大変難儀をさせて頂きました。それは今日合楽でこう言う様な人が助かる様な場が出来る事の為に、難儀を与えられたのではありません。
矢張りそれには大坪の家の廻りがあり、私が作った廻りがあり、そこに例えば食る物も食られん程しの、次から次と七墓築く様な、難儀な事が起こって来たりしたのであります。皆んな無碍な事ではありません。当然そう言う難儀を、受けなければならない元はこちらにあるのです。けれどもそう言う難儀をです、やれ痛やと受けた所に、そう言う難儀を有難しと受けた所に、それが言うならば徳にもなり、力にもなって、大坪一家が助かるのではない。沢山の人が助かる様にもなって来た訳であります。
ですからどうでも一つやれ痛や今御影を、と言う訳が解ると同時に叩かれたあ痛いと言う前に、済みませんと言う様な心が出る信心を、先ずは頂かねばいけないと言う事です。鴨居で頭を打つあいたよと言うてから、その鴨居の方を叩く様な事をする。鴨居が悪いのぢゃない自分が辞を低うしないから、自分が頭を下げて通らないから鴨居で頭を打ったんです。鴨居で頭を打った時にです。
人間と言うものはすぐ思い上がる。もう本当に思い上がる力もないのに良い着物を着ると、もうその良い着物を着て何かよかつの様な気がするです、ね。どうですかそんな思いはないですか。もう本当に自分が偉くなった様な気がする。だから言うならば鴨居で頭を打たなければならない様な事になる。昨日は何台も新車を購入したと言うて、お礼お届けやらお祓いを受けに来た人があります、その方に私が申しました。立派な車ですこりゃもうまぁだあんたどんには良過ぎるのと言うた事でした。
けれどもまお許しを頂いて買わして頂いたんだから、御用に使うて頂かにゃならんけれども、こう言う今まで小さい車に乗りよった者が、こう言う立派な大きな車に乗るのだから如何にもそう言う大きな車に乗るのは当然の事、何か気分様なって来る、その気分ようなって来ると言う事がおかげ落としの元。もう自分なそう言う大きな車を乗り回しても良い資格があるかの様に思う。そこで実を言うたら是は分に過ぎたものですけれども、と。言うならば自分を知ると言うか。
所謂本当に勿体ないと言う心で、乗らなければいけないよとまぁ申しました事です。大きな車に乗ると本当に自分が、それこそブルジョアになった様な気がします。そう言う例えば心の状態が起きて来る時にです、痛い思いをしなけりゃならんのです。だから私共はそれを何時も思うです。私も昨日から足の右の足もう何十年振り、以前はもうしょっちうでした。座りダコがもう化膿するんですよ。もう両方どっちかがそのもう座るに座られない。それでも座るのが商売だから座らんならん。
もう本当に何十年振りですこんな、昨日あたりから化膿しだしてから座られない。で今朝からその事を神様に、御用に差し支えない様にお願いさせて頂きよりましたら、船を漕いでいるんですよ。それで傘も持ってる訳です雨が降って来る、傘を出しながら竿をもってる訳です船をねそれに何人か乗せている。まあそれでまぁ色々思い当たる事があったんですけど、傘は是何時も持っとかなければならない。
安心の傘と言うものを、持っとかなければならんけれどもです。そこにそう言う例えば一寸した無理な事をした事がです、どっちが助かるでなくて、まぁそれから私自身が悟らして頂いた事なんですけれども、して見ると大難を小難にお祀り替えを頂いとるなあ、本当言うたらこんな位の事で痛い思い位な事ではない、もっと大きな痛い思いしなければならん所を、神様が大難を小難に祀替え下さってあるなあ、と解らせて頂いてから、痛い事が又有難い、と言う事になって来た。
やれ痛やと言う事になって来たそれが本当なんだ大体。あれがこうしたから痛い思いをすると言うのじゃない。その元は自分自身にあるのだ、そこでやれ痛やと言う事に、時に今みかげをと言う事にならせて頂くと言う事がです大事なのです。信心さして頂く者がそれを端的に申しますとです、この方の道は喜びで開けた道だから喜びでは苦労はさせんと仰る。この方の道は喜びに喜んで開けた道ぢゃから喜びでは苦労はさせんね。だから自分の都合の良か時は喜ぶけれど。
都合の悪い時には喜ばんと言う事ではなく、一切合切が有難し受けて行けれる心。言わば喜び上手になると言う事。それはもう理屈抜きにしてですはぁおかげ、はぁ有難い大難を小難でおかげ頂いて有難いと言う様にです、もう一切を喜びで受けて行くならば、もう絶対の喜びの道が開けます。喜びで受けて行きよるかと思うと、次には不平不足で受けて行く、だからおかげが行ったり来たりする。だからもう一つもう本当に一つ、嘘にでも良いから喜ばして貰う稽古を本気でせなきゃならぬ。
はぁおかげですよ、はぁおかげがとね。もう一切がおかげですよ。おかげですがと言えれる信心を頂かせて頂かにゃいけない。だから信心は結局有難くならせて頂く稽古、喜びの稽古であります。だから理屈は解らんでも良いから、先生が喜びで受けと仰るから、喜びで受けて行く稽古を、本気でさして貰う。今日は私はそれを只、喜びで受ける理屈が解る、れば解る程それが神愛であると言う事が、解って来ると言う事を今日は聞いて頂いたね。解れば解る程、お礼を申し上げねばならない事に。
私共が不平不足を言っておると言う事になる。
昨日数え歌の五つ迄を皆さんに聞いて頂いた。だから六から十まで出来たから聞いて頂きたい。六つ難しい顔するな福が逃げ出す徳がへる。はぁ難しい顔をした、やっぱり時々、鏡を見て見ねば解らん。何が機嫌の悪いか知れんが、ブーッとしとると言った様な場合があるでしょう、そう言うのを折角積んだ徳がです、福が逃げますです、そして徳が減るです。だから何時もにこやかにあれと言う訳です。六つ難しい顔するな、福が逃げ出す、徳がへる。七つ難儀に背をむけな難はお徳の元と知れ。
是を一つ思い込んどかねばいけません。昨日の御理解が此処ん所です。七つ難儀に背を向けな、その難儀に本気で取り組まねばいけないと言う事です。逃げ出そうとしてはいけない。何故かってそれが徳を受ける元だからです。力を受ける元だからと言うのです。八つ、やらねばならぬ事、やってはならない事するな。八つ、やらねばならぬ事、是だけの事はやらねばいけない。教えを頂けば頂く程、こうあらなければいけない。実意丁寧神信心、にならなければいけないと解っておりながら、それをやらない。
そしてやってはならない、こげな事ぢゃおかげを落とすと解っているばってん、こんなこっちゃ信心している者は、こしてはいけない事だけどと、解って居りながらやってはならない事をするなと言うのです。八つ、やらねばならぬ事、やってならない事するな。九つ、こぞって朝参り勢信心の徳受けよ。皆さんは今そ此の所を通っておられるわけです。十、徳受け家繁昌子孫繁昌で有難し。で終わりになっている。
所謂子孫繁昌家繁盛のおかげ、自分一代ぢゃないそれが子にも孫にも伝わって行く程しのおかげと言うのは財産ぢゃない、ものぢゃない金ぢゃない残しておけれるものは、天地の信用である御神徳である。御神徳を残しとかねば駄目、残して居る物で怪我をする。バイ菌の付いたボタ餅を残してやっておる様なものである。だからその親が残したバイ菌の付いたボタ餅を食べる様な事になるから、子供が難儀をしなければならない様なものを、残してはんらないと言うのである。
徳を受けなければいけない、それが家繁昌の元にもなりゃまた、子孫繁昌の元にもなる程しの、おかげを受けなければならん、と言うのです。もう兎に角、訳が解っても解らんなりにでも、お道の信心さして頂く者は先ず不平不足が大禁物、不平不足が出ろうごとある時にはですね、それこそ金光様を称えさせて頂いておると、日頃頂いている教えが甦って来る。無理にでも其処ん所を修行さして貰うて、お礼の言へれる所迄、おかげを頂かねばいけません。
やれ痛やと言う心で有難し、今みかげをと言う心になれよ、と。痛い痛いではいけません。それこそ痛いと言う事も、痒いと言う事もね生あるおかげ印である、命ある印である。是はもう本当に間違いなしに、真からです痛い思いをする時にです、はぁ有難いと言う、本当の心が出たら、その場でおかげになるです。是は間違いないです。昨日、東京の、年に何回か出ておる常磐台の本を、あかしと言う本を、送って頂いとりますが、此処でのお父さんが大阪の泉尾教会の教会長先生です、その息子さんです。
大変東京でおかげを頂いとられる模様です。合楽と同んなじ様な事を言っておられるから、大変有難いなあと思わして頂いた。助かる喜びから助ける喜びと言う事を言うのが、今年のスローガンらしいですね、あちら泉尾、東京泉尾の教会常磐台の教会。助かる喜びから助ける歓び、合楽示現活動がそうである。お互いがおかげを頂いておる事実を見極めて、その頂いておるおかげを現して行こうと言う、自分がおかげを頂いた、頂いたおかげを今度それを沢山の人に、現して行こうと言う。
しかも、合楽の場合は、合楽示現活動と言う事は、神仏が不思議な働きを示し現す、神が奇跡を見せると言うて下さると言うのが、それです。去年の暮れから今年にかけての暮れじゃないですかね、もう七、八ケ月になりますでしょうか、ね、合楽示現活動が始まって。助かる喜びから、今度は反対にもう一つ一歩前進して、助ける喜びを現して頂こうと言うのです。ならどう言う事が助かっておるかと言うとです、ね、例えば、やれ痛や今みかげをと言う心になれる、心が助かっておる心です。
はぁどうしてこう何時まで難儀せんならんだろうかと思うておった心が、その難儀こそお徳を受ける元であったと解った時、もうあなたは助かったと言う事になるのす。三井教会の、もう先代の時ですから、総代さん岸と言う饅頭屋さんがあります。今のお祖父さんの又お父さんですから、今の方達の曾祖父になる。一番初めの頃の三井教会の総代さんである。善導寺に金光様がお祭りされた時の、近所だからお参りになった。もう長年の脳病でね、長年の脳病で朝から起きられん。
起きると頭がフラフラする。それで難儀しておられたのを、近所に金光様が出来たと言うので、お参りされた時に頂かれた初めてのみ教えが、このみ教えだった。やれ痛や今みかげをと言う心になれよと。非常に純粋なお方でした。私共も知っておりますがね、昔かぁぁしのそのお説教の中に、その話をよく聞かして頂いた事を覚えているんです。裏のお庭を掃除をされておった路地の入り口の所に、ドライゲの牡丹のありますね。あれがずうっと這わしてあった。
その潜り戸をこうやて引っ張って開けた時に、そのいがいがのあの牡丹のあれが、ピョーンとこう跳ねたんです。こう潜り戸を開けた時に、その時に丁度頭を持って行っとった時に、跳ねたつと頭にトゲが刺さったのが一緒だった。もうその瞬間ですそのおじいさん有難う御座います、と言うてそのお礼が出たと言うのです、ね。真っ黒に血が出る訳です。今日頂いたばっかりの、やれ痛や今みかげをと。
あヽ金光様ちゃ有難い事言わっしゃる。痛い時でも今みかげをと言うてお礼を言わんならんと言うそれが、もうそのままね出た訳です。もうそれっきり脳病と言うその病気が、根切れのおかげを頂かれたと言う話をね。聞いております。やれ痛やみかげをと言う心になったら、もう本当にその場でおかげを頂けるです。私は昨日この本を泉尾の教会の先生私より十二 三才位どうも多い様ですこのが今最近言っておられる。
先生が言っておられる事は。もうそれこそえげつない迄に金光様の信心は、おかげを頂く宗教だともう生なおかげを即頂く事だと、もうその事ばっかり言い張っておられる様ですね。金光様の信心教え教えとか教学とかと言いよると、そのおかげがまどろしゅうなる。もうこの方の道はもう人が助かる事さえ出来れば良いと言うのがお道の信心なんだ。もうそれとまあ私が読まして頂くとえげつないまでに助かる事が、金光様の信心だと言う風に言っとられます。私もその事を本当にやっぱり私もそう思います。
金光様の信心は、もう助かる事さえ出来ればであります、それをあのうそうだなあと思ったら頂きましたのが、ビールの栓抜きを頂きました。此処にビールがあるけど栓抜きがなからな飲まれん、所が飲みたいと言う時にその場で開けてやれる様なです、おかげの受けられるのが金光様の御信心だ。成る程三宅先生の言われるのが、本当だと言う事なんです。此処でもそうでしょう、もうどんなに例えば、その病人であってもどんなにもう、もう命がない病人でも、必ず印が見えるです私がお取次さして頂いたら。
だからそのしるしが見えるから、はぁ神様ぢゃ有難いと言う心になって、一心に縋って来れば、おかげになるのです。是はもう絶対です。ビールが飲みたいと、その場で開けてやれる様な、栓抜きの様なもんです。金光様の信心は、栓抜きを借りに来る様なもんです。是は病気だけの事ぢゃありません。経済の問題だって人間関係だって、難儀と言う難儀の全てに、おかげの印がすぐ見えるのです。喉が乾くなら、すぐ水が与えられる、お腹が空いているなら、ね。
すぐに一杯の御飯が与えられる程しの、おかげが受けられるのが、私はお道の信心だと思います。だからそう言うおかげを頂きながらです、私共はやれ痛やと言う心、愈々そのおかげの中から御神慮を悟らして貰うてです、どう言う事の中にでも、有難しと言う心の出る様な、信心をさして貰うて、愈々喜びの信心生活をさして貰わなければいけません。やれ痛やと言う心で有難し、今みかげをと言う心になれよ。どんな痛い思いをする時でも、今おかげを頂いとる時だと、思える信心を頂きたいですね。
どうぞ